遊ぶ、遊ばせる、遊んであげる2013/07/07

保育実習の授業で指導案や記録を読んでいると、学生が書く計画や記録には、保育の目標・原理・内容の理解が現れることを実感します。(保育の目標・原理・内容は、「保育所保育指針」と、「幼稚園教育要領」に示されています)

保育者の場合、子どもは「遊ぶ」が基本ですが、保育の本質を理解していない場合には、「遊ばせる」、「遊んであげる」という言葉が出てきます。「子どもに~させる」「子どもに~してもらう」なども、初学者の特徴的な言葉です。

保育の勉強をはじめたばかりの学生の多くがイメージしている保育者は、ピアノを弾いて子どもに歌を「うたわせる」、手遊びなどを「してあげる」人。保育者は、子どもを楽しませ、喜ばせる人であり、子どもには刺激等を「与えないといけない」と考えています。しかし、子どもの発達、保育の原理と保育者の役割を学ぶうちに、どんなに小さくても、生活の主役はその子ども自身であり、遊びは子ども自身が生み出すものだと気づきはじめます。保育者の役割は、子どもを楽しませることではなく、子ども自身が楽しみや喜びをつくりだせるように環境をつくり援助をすることだと理解します。

その喜びも、「happiness」よりも、「fulfillment」(フルフィルメント・充足感)(byマーチン・セリグマン)の追及。

物を買ってもらったり、美味しいケーキを食べたり、誰かに何かをしてもらって楽しませてもらうような幸せも、時にはあってもいいけれども、日々の保育で追及したいのは、「充足感」。子どもたちには、これからの人生で、自分のいる場で充足感を生み出し、自ら働きかけて環境を変え、どんな状況のときにもたくましく乗り越えていける主体的な人に育ってほしいと思います。

消費社会は、商品を買う、サービスを消費するタイプの愉しみにあふれています。小さな子どもたちも消費者として扱われ、親も祖父母も、子どもたちを楽しませよう、喜ばせようとします。サービスする大人に囲まれていては、子どもは「充足感」を得られません。本来、子どもたちは、身のまわりのほんのわずかなもので、たくさんの喜びを創り出す力をもっています。けれど大人にはそれが見えにくい。そのため大人の価値観で、物やサービスを子どもに与えようとします。

保育者だけは、子どものちいさな喜びを見いだせる人でいてほしい。
一見つまらないもののように見える子どもの遊びにも寄り添える人になってほしい、と思います。

保育原理では、遊びの本質と、保育者の役割、方法原理だけは最低限度理解できるようにと授業をしていますが、豊かな遊びを経験した学生には、水が染み込むように、受け取ってもらえる感覚を味わっています。未来の保育リーダーたちに期待大です。



光化学スモッグ注意報2013/07/12

「ピンポンポンポ~ン、こちらは防災あさかです」、一日に何度か聞くこの放送。
2時半ごろには、「今から私たち小学生が下校します。地域のみなさん、いつもわたしたちをみまもっていただきありがとうございます。今日もよろしくお願いいたします」と、小学生の声。
夕方5時半には、「よい子の皆さん、さあおうちへ帰りましょう」と女性の声。

ここ最近は毎日、光化学スモッグ注意報が流れています。解除は夜の7時すぎ。
関東圏では、暑い時期にはよく注意報が出るようです。知りませんでした。
他国のスモッグはニュースになるのに、日本のスモッグは問題視されないのですね。

そういえば斉藤公子先生が、本のなかで公害の影響について書いていらっしゃいましたっけ。
エコチル調査の進行状況も、時々見ています。

子どもの体を守っていくことが、とても大変な時代になりました。


子どもたちをスモッグから守っている木々たち


ひだまり通信手書きバージョン2013/07/15

先日、久し振りに浜松へ行きました。
浜松市市民協働センター(浜松駅から徒歩8分)に移転して、3か月たったここみひろばの様子です。
このおだやかな空間に、親子とスタッフが加わると、いきいきとした空間になります。


浜松市ここみ広場
 


ママスタッフ
たちの活躍
が素晴らしくて感激しました。また、それを支えるベテランスタッフたちも、安定感が増していました。
外遊びやまちづくりなど、ほんとうの支援をまち全体へ拡げていこうとする姿勢に、ただただ感心するばかりです。
赤ちゃんの保護者が利用しやすい空間は、子育て支援のモデルですね。
これから子育て支援を始めようとする団体には、ぜひ見学をお勧めします。(うなぎと舘山寺温泉もセットで)。


元の空間です。もしも保育カタログに掲載されているようなパステルカラーの棚や、キャラクターのついたパネルじゅうたんを選んだとしたら、ずいぶん雰囲気が違った広場になったでしょうね。


さて、ひだまり通信の手書きバージョンを、ここみ広場を運営する浜松の未来を育てる会のホームページ/子育てのコツに置かせていただきました。チャイルド社から出版された書籍「ひだまり通信」の元となった手書き通信です。出版された本には入っていないものなどがあります。子育て支援のお便りなどに使ってくださいね。 (高山静子「ひだまり通信」浜松の未来を育てる会ホームページと明記をお願いします)


                 みんなで子育て 浜松の未来を育てる会ホームページ


出版された本の藤原ヒロコさん(イラストレーター)のイラストと、私が描いたイラストを見比べると、とっても笑えます。
ひだまり通信叱ることを怖がらないで
チャイルド社から出版されている「ひだまり通信」も、コピーフリーで、通信として配布できます。

教育・保育は、教えられない・・・。2013/07/27

今月は、ずっと行きたいと思っていた二つの園へ念願の訪問がかないました。そして先週は、私にとっての「絵本の聖地」に行くことができて、もう幸せ感でいっぱい。ブログに書けないのが残念ですが、お世話をしてくださった皆様、ほんとうにありがとうございました。

さて、子ども・子育て会議の会議内容が続々と更新されています。
幼稚園教諭の一種免許取得を国が促進する方向性は着実になりそうですね。


一体化で、いつも議論になってきたのが「教育」と「保育」の定義
これまで、保育学上、
教育+養護=保育
幼稚園の学校教育=保育
であったわけです。

保育士・幼稚園教諭を養成している養成校の教員であれば誰でもそう教えているでしょうし、幼稚園も保育園も「保育」を行っているために日本保育学会が成立していました。「保育・教育」と表現した保育原理のテキストはないはずです。

「教育」と「保育」を並列で使うのはおかしいという意見のなかで出てきたのが、「学校教育」と「保育」
教育と保育が並列で並べられると、理論的に説明が難しくなりますが、学校教育と保育が並列に並べられると、もっと意味不明で、学生に説明ができません。
「教育・保育」は、「りんご・果物」が並んでいるみたいでおかしいし、「学校教育・保育」は、「果樹・果物」みたいで、もっと気持ちが悪い。「学校教育」と並列で並ぶことができるのは、「児童福祉」しかないでしょう。すべての幼児期の子どもに「学校教育・児童福祉」を!これならスッキリ。「幼稚園と保育所と子育て支援の機能を併せ持つ」これもOK。

子ども・子育て支援法における「保育」「教育」の意味について、無藤隆先生は次のように説明されています。
「『教育』とは、教育基本法第六条第一項に規定される学校で行われるものであり、満3歳以上を対象とします。それは実際には、学校教育法第一条で規定される学校の一つである幼稚園と、認定こども園法で規定される幼保連携型こども園が該当します。幼稚園型認定こども園はもちろん幼稚園であるのでそこに入ります。『保育』とは児童福祉法第六条の三第七項に規定するということです。家庭で世話をできない場合に保育所などで一時的に預かる制度の規定になっています。『家庭において保育を受けることが一時的に困難』という言い方をしていますから、その『保育』とは家庭での養育を指し、それと同種のことを保育所で行うという意味に理解されます」。

「学校教育法」の一条校である「学校」で行われる機能を「教育」と呼び、児童福祉法で「家庭の養育」と「一時預かり事業」に規定されている機能を「保育」と呼ぶ。つまり、学問上の「保育」「教育」の意味とは違い、法規上の言葉の解釈を使っていることが説明されます。しかし、家庭の養育と、一時預かりと、児童福祉施設で行われる集団の保育を、同じ「保育」という言葉で表現することには無理があります。
次回の会議では、委員の指摘によって、「保育」の定義が資料に出されるはずです。

一体化の議論を見ながら、学問の意味はどこにあるのだろうかとぼんやり考えています。議論に耐えうる保育理論と、流行に左右されて言葉を変節させない保育者を育てたい、と改めて思います。

このままでは、「保育」という言葉が、このように使われることが増えるかもしれません。
(以前、I沢さんから送っていただいた写真です)

森のようちえんピッコロ2013/07/30

今月伺った「森のようちえんピッコロ」さんから、ブログ掲載の許可がおりました。ありがとうございます!

以前、この園を主宰する中島久美子先生のエッセイを読んでから、その保育をいつか拝見したいと思っていました。
森のようちえんピッコロ

中島久美子先生が書かれたエッセイはこちら。小学館保育ネット私の保育 大賞作品「動物の死をめぐって」
「森のようちえんピッコロ」と、大阪の「聖愛園」と「りんごの木」の三園が 「こどもこそミライ」という映画になったそうです。

JR長坂駅からタクシーで30分ぐらい。
森のようちえんピッコロ


メインの園庭は森ですが、園舎の前庭も広い。どこまでが園庭なのかがわかりません。


朝から保育者が集まって保育者ミーティング。子どもたちのことを話し合う濃密な内容にまずびっくり。



続いて子どもたちのミーティング。私を紹介していただきました。

中島先生が問いかけると、子どもたちの大学談義。「行ってもいかなくてもいい」「まだ行くかどうかわからない」など、それぞれが話をします。まあ、よく知っていること。家庭で豊かな会話が交わされていることを感じます。


森は、道路を渡るとすぐでした。
九州育ちの私の森のイメージは、厳しく、危険な場所。
でも、ここの森は子どもたちを包み込むような優しい森。小さな沢も子どもたちの遊び場としてぴったりです。




カニと虫ばかりを探している子どもたち。
沢の水で感覚遊びを楽しんでいる子ども。
お医者さんごっこを楽しんでいるグループ。
平らな場所を選んでは、走り回っている子ども。

森の中でも、それぞれが自分に必要な遊びをしている姿に何ておもしろいの!と声をあげそうでした。
環境は違っても、子どもがつくり出す遊びには、共通点があります。
ただし、森という環境の豊かさ(応答性、多様性の高さ)は、抜群。
そのため、そこで日常的に遊んでいる子どもたちの、身体能力の高さにも目をみはるものがあります。


でこぼこの森を長靴で走り回る子どもたち。


森から帰ってくるとお弁当の準備をして昼食です。



そして帰りのミーティング。子どもたちの手元にはくわがたとセミが。
そういえば、この子たちは、朝からずっとくわがたとセミを連れていましたっけ。
普通の園では、とても許されない光景ですね。
ここには子どもの個性と多様性を受け止める時間と空間がありました。

この園の保育者の皆さんは、子どもの主体性を徹底的に尊重していました。
気づくこと、考えること、決めること、行動すること、人と話し合うこと。
保育者は、子どもが自分で考え気づくような質問をし、子どもの言葉を繰り返して受け止めます。

子どもたちの目の輝き、言葉と遊びの豊かさ、そして思いやりのある行動から、親御さんたちも素敵な生き方を選んでいる方だろうと想像しました。


子どもたちと森と保育者の皆さんから、一日大きな学びをいただきました。
ピッコロの皆さん、ありがとうございました。