子どもを信じる保育者と「かわいい~」2015/12/24

今年も、森のようちえんピッコロの中島久美子(なかじまくみこ)先生に、授業のゲストに来ていただきました。

何度お話を伺っても、初めてルソーの『エミール』を読んだときのように興奮し感動します。
子どもって、なあんてすごいんだろう、
子どもの力を信じることには、何と力があることだろう、
保育って、なんて素晴らしい仕事なんだろうと、
胸が一杯になってしまうのです。
学生たちも、中島先生のお話にシンと引き込まれていました。

保育者がどんな「子どもへのまなざし」を持っているか。
「子ども観」をどう育てるか。
保育者養成と研修の大きな課題です。

私には、子ども観を変えるような授業はできませんが、
中島先生のお話には、子ども観を変える驚きがあります。


森のようちえんピッコロ
森のようちえんピッコロ『子どもを信じて待つ保育』、『群の視点』。


今回、一つわかったことがありました。
それは「かわいい」に関すること。

中島先生が、最初にいくつか写真を見せてくださったのですが、
ハッと息を飲むような写真に対しても、
「かわいい~」と黄色い声があがりました。
私は、(ああ、この写真も、かわいいなんだ)と、ひどくがっかりしました。

これまでも、園見学で学生が「かわいい~」を連発していると、
(なぜ、どこがかわいいなんだろう)と不快に感じることがありました。
かわいいとしか感じないのであれば見学に行っても仕方ないのでは
と、その年度は見学をやめたりもしました。

なぜ、「かわいい」を不快に感じるのか、
自分でもよくわかっていなかったのですが、
私は、「かわいい」という言葉から、
子どもを下に見ている印象を受けるからだとわかりました。

中島久美子先生のお話を伺うと、
子どもの感性や許容量の高さ、心のまっすぐさに驚き
(子どもってこんなことを考えているのか)と圧倒されるばかりです。
そのときに「かわいい~」と言われると、
なんだか子どもをバカにされたように感じてしまうのです。

子どもを(かわいいなあ)と、愛おしく思う「かわいい」と、
「かわいい~」という黄色い言葉の違いがやっとわかりました。

子ども観が変わったとき。
それは、子どもの行動を見て、
「かわいい~」と言わなくなったときかもしれません。

コメント

_ 高山静子 ― 2015/12/26 23:14

H先生、感想をありがとうございました。「かわいい」というのは、ボキャブラリーの問題ではというご意見、私も同じように思います。「やばい」と同じなんだろうなあと。

一年生のときに、子どもの写真を見るたびに「かわいい~」「うわあ~」と声を挙げる学生たちを私はとても嬉しく思いますし、そういう学生には、きっと素晴らしい保育者になるだろうと期待を持ちます。ただ学びを重ねても、「かわいい~」と言われると、とっても不安に思ってしまいます。「ひどくがっかり」というのは、「私の授業は、届いていなかったんだ」というがっかりなんです。学生たちに届く授業ができるように、私自身が学びを重ねていきたいと思います。

_ 中島久美子 ― 2015/12/29 22:17

【子ども観が変わったとき。
それは、子どもの行動を見て、
「かわいい~」と言わなくなったときかもしれません】

高山先生のこの言葉にぐっときて何度もこの文を読ませて頂きました。
ありがとうございます。
私も子どもに対しての印象は「かわいい」というよりやっぱりどうしても「尊敬」なのです、
あ、「畏れ多い」とも言えますが、、、(泣)。
子どもに戻りたいです。

_ 高山静子 ― 2015/12/30 08:00

中島久美子先生、コメントをありがとうございます。

コメントを拝見して、(そうだ、私が学生や保育者に中島先生の話を聞いてほしい、と感じる理由の一つは、中島先生は「畏れ」を持っている方だからだ)と思いました。

中島先生のお話からは、端々に「自然」と「子ども」に対する畏敬の念、そして子どもの生涯に影響を与える「保育」という職務への畏れが感じられます。
「なぜか涙が出てきてしまう」と書いた学生は、それを受け止めたのかもしれません。

森のように命に囲まれた保育を、保育者が普通の保育園や幼稚園で行うことには、ハードルがあります。しかし「子どもを信じて待つ保育」は保育者のレベルで少しずつ取り組めると思います。子どもを信じて待つ保育をしようと思えば、時間と空間の環境は森の保育に近づいていくでしょう。

中島先生、これからもぜひ全国各地で、「子どもを信じて待つ保育」をお話下さい。

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